omoto展に寄せて

【2020/4/24-5/6開催 omoto展に寄せて 文:東野華南子】

omotoは、福島県いわき市にて夫婦でものづくりをしている夫婦ユニットだ。
智子さんは、布をつかって洋服やエプロン、布小物を。
康人さんは鉄をつかって主に刃物をつくっている。

彼らのwebサイトに、生活の中の布と鉄、という言葉があるように、
ふたりがつくるのは、生活の中の、はたらき者のための道具。

一日のはじまりに身につけ台所にたつとき、智子さんの服は、よいしょと伸びる背すじをやさしく支えてくれる。
不思議と体さばきがかるくさせ、テキパキと暮らしを導いてくれる。
康人さんの包丁は、やさしく握り込むだけですっかりすっぱりきりわけてくれて、その日の自分をつくってくれる。
トマトが1mmよりもうすく切れる切れ味の良さで、野菜の味も変わる。

今回の展示は、そんなふたりの作品を預かり、みなさんにご紹介する機会です。

8年前、上っ張りを買わせてもらった時、破れちゃったらどうしよう、と情けない言葉をこぼすと、智子さんはポツリと、
「布は、糸のあつまりだからねぇ。なんでもなおせるよ」
と、ごくごく自然に受け答えしてくれた。

当時宿屋の女将をしていた私の日々は、音楽とか家具とか仕組みとか、空間を因数分解して、構成する要素をとらえて手に取り納めなおしていくものだった。
だからその話を聞いた時、そうか、布を構成しているのは糸なんだ…と不思議な納得感がじわじわと体に広がっていった。要素がわかっていれば、つくれる。なおせる。
こわれてもなおせる、そんな心強さをもてるものと付き合っていきたい。そう思うようになり、空間づくりを通じて身につけていた実感が、暮らしにつながったきっかけは、この時にある。

名前にこだわらず、自由につかっていいんだよ、と本人が言う通り、康人さんの包丁は名前も形も、自由だ。
自由すぎて、すこし心細くなることさえある。けど、使い手によって役割が与えられ生まれていく面白さを、康人さんの包丁で知ってしまった。

そんな包丁のつくりてである康人さんの鍛冶場にはじめて遊びにいかせてもらったのは5年前。
なにかつくってみる?とその日の仕事を終えようとしていた所に到着した私たちに声をかけてくれた。
鉄の棒を火の中にいれて赤めたところを、カンカンとたたいて、曲げて、伸ばして尖らせていく。その力強さにびっくりして、あっという間の出来事にぼうっとしていたら、ついに私はやってみたいと言い出せなくなってしまった。
逃げるように台所にいって智子さんの夕飯の準備を手伝うために包丁を握る。
康人さんの包丁が、力を入れなくてもすぅっと吸い込まれていくように切れるのはつくられる過程で康人さんの力強さが込められているからかもしれないな、と思った。

やぶけてしまっても、繕ってなおせる。
切れなくなってしまっても、研ぎなおせる。

そう思えるようになったら、だめになったら手放すしかない、という心持ちだったら選べなかったものを選べるようになった。
壊れてもどうにかなおしたいと思える、相棒のような道具と暮らせるようになった。

手放してしまって新しいものを買いなおすほうが楽かもしれないし、それがたのしい時もあった。
でも、こわれたり調子がわるくなる度に、まだなおせるまだどうにかできる、と、
しぶとさや粘り強さやたくましさは育まれた。
道具としての機能の高さに喜びをもらい、もう使えないかもしれない、と思うと心が痛んだ。
omotoの道具たちは、病める時も健やかなるときも、心を動かしてくれる。

その身に痕跡を残して過ごしてきて時間を見せてくれて、今までだってどうにかしてこれたじゃないか、と励ましてくれる。

これまでだって。これからだって。
たくましく生きていくぞ、お守りのような、道具たちです。